虚飾の愛知万博

さいきん、東京に行く新幹線の車中で、「虚飾の愛知万博」を読んだ。
この本が気になっていたら、たまたま名古屋駅内の売店で売っていたのだ。
本書では、万博の様々な内幕を暴いている。
この内容は、愛知県人には知られている事実が多いのだが、ほかの地域の人には知れ渡っていないことのほうが多いだろう。
単なるコキ下ろしとしても読めるが、筆者は「それでも万博に来てほしい」という。
とにかく来場者を増やさなければ、赤字は膨らむばかりで、結局、税金でツケを払わされるのは私たちだからだ。
それに、本書で知った事実を頭に置きながら、「万博事業」のあり方を検証するという視点から、万博を楽しんでみるのも悪くはないだろう。
 
かつて盛り上がった万博開催の反対運動は、とっくにトーンダウンしてしまった。
反対運動は、開催後の会場造成計画や、海上の森の野生鳥類発見、BIEからの最後通告、最低のアクセス環境など、話題には事欠かなかったのに、国民的な関心事にまでは至らなかった。
その後、開催が決定し会期が近づいても、多くの国民が万博開催自体を知らずにいた。
事前の万博の開催問題と、開催自体の認知度の低さは、メディアでの露出が少なかったことが原因のひとつにあるだろう。
万博反対派、推進派ともに、メディアをうまく利用できなかったのだ。
 
かつての反対者たちのなかには、いざ開催となると、参加に転じた人も少なくない。
そのこと自体を、批判するつもりはない。
後述する市民企画には、比較的参加への抵抗感も少ないというのもあるようだ。
反対の意思を持ち続けている人たちは、いまさら声高に反対を叫ぶのもばからしかったり、関係者への配慮があったりして、沈黙している人が多い気がする。
いま、万博を取り巻く最大の問題は、どのようなスタンスの人にとっても、真っ向から万博について批判したり議論する雰囲気が消失してしまったことだ。
現在あるのは、万博への感想や愚痴を語り合う雰囲気だけで、開催までに直面した数々の問題をすっかり置き去りにしている。
会期終了後、忘れ去られている様々な問題が再浮上して、後始末をどうするかという後ろ向きの議論が立ち上がるに違いない。
そうなる前に、開催前から続いている問題の整理と議論を続けることが重要なのに、人々の頭の中からすっかり消えてしまったかのようだ。
主催者が黙っている間、それにつられて忘れてしまっていいものだろうか。
 
万博会場を訪れている観客は、高齢者の割合が多い。
「万博」にロマンや情熱を抱いている世代は、ある程度の年齢以上だろう。
今回の万博では、万博協会の職員や、参加企業・団体等の管理職の人々が、まさにその世代である。
しかし、彼らの下で働いていたり、ボランティアをしている若い世代の人々は、とてもクールに万博を見つめている。
将来は、「万博」ということだけで心を動かし事業を進めるような世代はいなくなることが確実だ。
要するに、「21世紀に」日本で万博やろうなんて言い出す人は出て来ない。
今回の愛知万博が、日本では最後の万博となるだろうし、そうなってほしい。
 
ところで、愛知万博の特色のひとつに、初めての市民参加というのがある。
万博というグローバルでコマーシャルな舞台に、市民が参加するとは、なにか面白いコンセプトがあるのかと思いきや、どうもうまく進んでいないようだ。
というのも、市民参加は代理店が仕切っていて、たくさんの企画を募集したものの、それぞれには資金がほとんどない。
つまり、多くの企画が、参加市民の無償労働という大きな犠牲の上に行われているのだ。
政府館や企業館など表舞台では多額の金銭が流れているというのに、だ。
なぜ、このような格差が生まれてしまったのか。
それに、市民参加企画は、企業パビリオンとは遠く離された位置に置かれ、万博裏通りといった雰囲気さえある。
結局、市民参加とは名ばかりで、主催者には真剣に市民をとりこむ意思などないのだ。
まさに、万博に花を添えた「とってつけただけの」市民参加である。
こんなお題目だけでは、観客もつまらないし、ネタにされた市民も可哀想だ。
ほんとうの意味での「市民参加」は、こんなものではないだろう。
たとえば、市民の感覚による建設的で批判的な視点を会場内に持ち込めるようなダイナミックな組織運営や雰囲気づくりができていたら…。
それこそ歴史上、画期的な万博になっただろう。
 
とは言うものの、市民参加は、利権にまみれた万博のなかでは一差しの光だ。
この万博、見方はいろいろある。
人気展示を並んで待つような「20世紀」的見方もいいけれど、過去を検証し、現状を冷静に分析し、未来の可能性を空想しながら、ひとり一人の視点を持って見るのも面白いはずだ。
 

虚飾の愛知万博 (ペーパーバックス)

虚飾の愛知万博 (ペーパーバックス)