ワークショップのパッケージ化について

そうそう、「ワークショップのパッケージ化」というコトバを聞いていて、考えていたことがあります。
 
パッケージ化の底流には、公開研究会でのテーマ概説であったとおり、公共施設の予算縮小があります。つまり、毎回誰かを呼んで(人件費をかけて)ワークショップをやることは予算的に厳しいために、パッケージ化が望まれているのです。
 
しかし一方で、いつまでも金が無い場所にいたくないから、政治的にワークショップ開催のための予算獲得をしようという動きもあるのではないかと思います。長期間の働きかけの結果、ある時、公的予算のなかに、ついにワークショップを行うための予算枠ができたとします。
 
例えば学校に予算がついたら、これまでの学校演劇、学校映画のような、学校ワークショップという分野が生まれるでしょう。もちろんこれは、政治的な動きなので、天下り団体、認証団体、研修施設、認定資格、認定ガイドブックなどなど、新しいビジネスも同時に生まれます。ワークショップのパッケージ化ならぬ、ワークショップの公式化です。
 
これはこれで、ひとつの分野の成熟した結果だと思います。ただ残念なのは、このときのワークショップは、何かお墨付きのついたカッコ付きの「ワークショップ」になっていて、これまでのワークショップとは質が異なるものになっているということです。学校演劇を観て演劇が好きになったり、学校映画がきっかけで映画を愛するこどもは、ほとんどいません。学校ワークショップが定番化した時代、未来のこどもたちはこう答えるに違いありません。
 
「ああ、ワークショップ? 知ってる、知ってる。
 学校でやらされたよ。つまんないよねー、あれ。」
 
かくして、ワークショップのクオリティは変質し、全国のこどもたちに「ワークショップなんて、こんな(低品質な)もの」という印象がついてしまうでしょう。
 
いや、これはありもしない未来の妄想であって、杞憂かもしれません。
 
まあでも、いま面白いことをやってる人たちは、そんな時代になっても、世間の主流の周縁で面白いことをやりつづけるはずです。ワークショップの捉え方は人それぞれ。彼らは、ワークショップを公的に定義したくはないでしょうから。